田原『水の彼方』と中沢けい



田原『水の彼方』をようやく読み終えました。

手に入れてすぐは、「あそこはどう訳されているんだろう」「あれはどう日本語で表現されているんだろう」と気になるところを拾い読みしまくっていました。ページの隅々にまで、訳者の愛と配慮が行き渡っているなあ(なんといっても字体のチョイスが最高!)としみじみ感じつつ、落ち着いたところで最初からじっくり読んでいきました。

日本語訳では、私が思い込んでいた部分、語学力が足りなくて行間を読めていなかった部分がきちんと過不足なく表現されていて、もやっとしたフィルターが外されてくっきり物語の輪郭を捉えることができました。
原書を読んでいるときは、感性でぐいぐいひっぱっていっている作品だと感じていましたが、あらためて日本語で読むと、構成がとても巧みなことに気づきました。

ちなみに、この小説を読んで思い出したのが、中沢けいの『海を感じる時』。肉体の変化とか、母親との確執とか、月だったり波だったりモチーフに似た部分があったり、揺れ動く不安定な少女時代を描いているところに共通点を感じました。『海を感じる時』は著者18歳のデビュー作で、若い女性が書き手、というところも同じ。78年の作品だそうで、どうなんだろう、その頃の日本と現代の中国、時代の空気感というのも、案外似ていたりするのかしら…。

先日、「あなたも翻訳家になれる!」という本を紹介した記事で、「訳書と原書を見比べ、表現方法を学ぶ」勉強法をとりあげましたが、この田原の小説で試してみるのもいいかなと思いました。日本の小説の中国語版でやるよりは、中国語独特の表現法とか、文化的背景に触れることができるのでおすすめです。文章も全然堅苦しくないですし。

物語の終わりの方に、「車が高速道路の上を麺を食べるように走っていく」という描写があるのですが、これ、どんなふうに訳されるんだろうととても興味がありました。

実際は上述の通りなのですが、中国人と日本人って、麺の食べ方って違いますよね。特に日本では、麺の種類でもだいぶ違う。この車はたくさんの読者の頭の中で、それぞれ違う風に走っていくわけです。考え過ぎかもしれませんが、この想像はなかなか愉快。中国人は麺を無音で食べるけれど、日本人はすすっちゃうから、エキゾーストノートがすごいかも。

以前読んだ翻訳家の著書の中に、「driveway」という語をどう訳出するか悩んだ、というエピソードがありました。「車寄せ」にしろ「私道」にしろ、drivewayが日本にない以上、訳出が非常に困難だと。

村上春樹の著書の中にも、「son of a bitch」は「サノバビッチ」とするほかない、というようなくだりがあったように覚えています。翻訳がどうしても超えられない、言語あるいは文化の違いで訳出できない部分、あるいは訳出できても著者のイメージのまま手渡せない部分と言うのはきっとどの作品にも多かれ少なかれあるのでしょうが、そういう翻訳を通じての化学変化も、読者の楽しみの一つなのかもしれないなあと思いました。

原書を愛して読み込んでいただけに(そのくせ一部過去記事ではタイトルを誤字表記してたのですが…ごめんなさい)、訳書がとても自然で魅力的な日本語というだけでなく、原文の雰囲気が過不足なく文章の行間に漂っていることが奇跡のようです。
中学高校時代がしんどかった人には、とても共感できる物語だと思います。

私は陳言が(あるいは方容容が)まるで自分の分身のように思えました。
うーん、たくさんの人が彼女の作品に触れて想像力を羽ばたかせてほしい!と心から思います。

水の彼方 ~Double Mono~
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海を感じる時 (新風舎文庫)
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女性作家シリーズ (22)
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