ライフログに関連するSNS投稿(特にインスタグラム)を定点観測していて最近思うのが、みんなおりこうさんだなあということです。
あんなふうに、毎日優等生をキープしていて、疲れないかなあと、ちょっと心配になってしまいます。
ズボラな私の方が異端なのかもしれませんが、おしゃれカフェみたいに常に自室をととのえて、満たされた我が生活の様子をほぼ毎日動画で撮って出しするインフルエンサーを見ていると、そのきれいな映像とはうらはらに、心がざわざわしてくるのです。
これってリアリティーショーですよね。観客ありきのかりそめの私生活。こうありたい私を、他人に見せたい自分を、私自身が演出する。
それに憧れて、毎日その投稿を見ているたくさんの人たち。
手帳キーワード周辺にもそんな雰囲気がただよっていることがあって、そのたびに、(みんなそんなにずっといつもいつもちゃんとしてなくていいんだよう)と思ってしまいます。
「ととのえる」に執着してつまづく
最近、「ととのえる」というワードが流行っているみたいで、いろんなところで見聞きするのですが、ととのえるって、結構エネルギーを使うものです。
モノって増えるし、増えたら散らかる。
散らかりすぎたら、ととのえる。
このうねりをもった現象をうまくコントロールできると、快適に暮らせることはまちがいないのですが、このうねり自体を必要以上に押さえ込もうとすると、メンタルに悪い影響を及ぼします。
自分をコントロールするのって、他人をコントロールするよりも簡単だから、一度うまくいくとクセになっちゃうところがあります。
人間は生き物だから揺らぎがあって当然なのに、うまくいっている状態を基準に考えると、少しの揺らぎさえ許せなくなってしまう。
「あの人」のととのっている状態と、私のそれとは違うのに、つい比べてしまう。
そもそもSNSで見る「あの人」の暮らしは、演出されたものでしかないのに、毎日毎日「あの人」の投稿を見ているうちに、それが普通、それが当然、に思えてくるこわさ。
なんでそんなことを言うかというと、私自身が最近、心身の調子をくずしてしまったからです。
うまくいっているときならではの万能感にとらわれてしまい、自分をコントロールすることに夢中になりすぎたのが原因です。
私をこわしたのはSNSという他人の幻影ではなく、「ととのっている自分」に執着しすぎた自分自身。
「続ければいつかは届く」のこわさ
成功した人の「続ければ必ずたどりつける。私がいまここにいるのは途中でやめなかったからだ」という言葉には、道の途中にいる人は勇気づけられるものです。
でも、これはあくまで、成功した人だけが言えること。SNSでは生存者バイアスが特に顕著になります。
私という人間には身体はひとつしかないし、一日は24時間しかありません。
20代、30代の頃、「続ければいつかは必ず」という言葉にとらわれすぎていたら、きっと達成できなかったであろうことが、たくさんあります。何かに見切りをつけて、新しい何かを始める。それはもしかすると、あなたにとっては、ひとつのことだけを続けるよりはるかに価値のあることかもしれません。
ツールは自転車の補助輪のようなもの
手帳や記録にも、おなじ不安を感じることがあります。
ある程度の期間、丁寧に記録をつけていると、今度はそれをやめてしまうのがこわくなる。
記録を取る手間に見合ったメリットがあるかどうか、定かではないのに、執着してしまう。
(自分が手間ひまをかけたものに対して、その価値を過大評価する心理をイケア効果というそうです。)
手帳やアプリで記録をつけるとき、「これは自転車の補助輪のようなもの」という意識でそのデータを扱うようにしています。
それはあくまで、自転車にスムーズに乗れるようになるために、一時的に使うツール。
目的が達成されたら、補助輪ははずしても大丈夫。愛着を感じて、はずしたくないかもしれませんが、別の目的のための補助輪をつける必要が出てきたときのために、スペースを空けておかなければなりません。
先日からTogglを使うのにハマっています。
一日の活動詳細がきれいにGoogleカレンダーに記録されていくのがあまりに楽しくて、「記録していない部分をあとから埋めるための時間」が増えてしまったのですが、よくよく考えるとそれって手段の目的化だなと思い、必要以上にきちんと記録を取らないように気を付けています。
世間で言われる「よい習慣」も、言われるがままにぜんぶ取り入れていたら身体がいくつあっても足りなくなってしまいます。
昨日の自分には必要だったものでも、今日の自分にはもう要らないものだってある。
いまの自分にとってほんとうに必要なものは何か。
時には、「ととのっている自分」すら放り出すことも必要なときがあるんじゃないかな。
足していくことは充実感をくれるけれど、自分を自由にしてくれるのはむしろ定期的に引き算していくことなのかなと、深い穴底からなんとかゆるゆるとはいあがりつつある私は思っています。