ヴィネタの街を救う(2) 自分を救ってくれた本



昨日はあまりにも濃い時間を過ごしたので、アルコールが体内に残っている間に、勢いで続きを書いてしまいます。

お互いが本好きとわかり、ほかにもいろいろな共通点があり、「自分が人生の途中でぽっかりあいている底なしの深い穴を覗き込んだとき、そこから救ってくれた本は何だったか」という話になりました。

どれだけディープな話をしているんだと自分でも思いますが。こんなのは学生時代に友達と飲んだくれた夜くらいじゃないと出てこないテーマだと思ってましたが、人生の半分過ぎてもこんなことを話せる友人ができるとは、神様も粋なはからいをするものです。

私を救ってくれた本

小さな頃、両親も本が好きな方でした。若くして結婚し、私を授かった彼らにはお金がなかったようで、いろいろ買ってもらえないものはありましたが(初めての自転車も、小学生になったときの学習机も、知り合いからもらったお古でした)、家には子供用の百科事典と、小学校低学年用の世界と日本の童話全集が並んでいました。

当時はおそらくそういった百科事典のような何冊も揃ったセットを居間に並べるのが流行っていたんじゃないかと思います。確かあの頃は、個人の家を回って百科事典を売り歩く営業マンもいたんじゃないでしょうか。

小さな頃から本の虫だったので、家にあった本は読みつくしました。もっと厚い本、もっと小さな字の本がほしいと思いましたが、ねだることができません。クリスマスに本がほしいとお願いしたら、枕元に雑誌の『小学◯年生』が置かれていました。(違う。これじゃない。)

父親は、家族を連れて時折、友人宅に麻雀をしに行きました。そのおうちは銭湯をやっていて、先にお風呂に入って、番台に座っているそこのおうちのおばあちゃんからフルーツ牛乳をもらったあと、店の入り口の脇の急な階段を通って二階に上がり、父親は友達とお酒を飲んで麻雀をし、母親は誰かと話し込み、子供たちはテレビを見たり、よその子と遊んだり、それぞれが気ままに楽しむのでした。

そのおうちで私はいつも、押入れで見つけた講談社の世界文学全集を片っ端から読んでいました。

おそらく父の友人が子供の頃に買ってもらったもので、時代感のあるハードカバーの全集でした。私はその本があるためにそのおうちに行くのが楽しみでなりませんでしたが、ある日とうとう、おばあちゃん、父の友人の母親に本を持ち帰らせてくださいと頼みました。

その後、そのうちに行くこともなくなり、全集の何冊かは借りパクした形で私の部屋にずっとありました。

学校ではなかなかうまく友達づきあいができなかった小学校時代の思い出は、ホメロスやオデュッセイアに出てくるギリシャ神話の登場人物や、ドリトル先生と動物たちと過ごした時間です。

異国で本に救われた

中国に留学したとき、いろいろなストレスにさらされ、メンタルのバランスを崩しそうになったときも、私を救ってくれたのは本でした。

日本人の男の子が持っている日本語の小説。私とは読むジャンルが全然違っていて、知らない作家、知らない作品が彼の部屋に並んでいるのを貸してもらって読みました。

東南アジアを長く旅していたときは、バックパッカーの集まる宿に置かれて行った日本語の本を漁り、行く先々で、読み終えた本を差し込む代わりに別の本をもらって行きました。

1月の暑い昼間、ミャンマーの寺院の、日陰にペタリと座り込み、床に貼り込まれたタイルの冷たさを感じながら、小林信彦の本を読んだのでした。

20代中盤から後半にかけて、一番の暗黒時代があったのですが、この頃もやはり本にのめり込んだことで救われました。あちこちの図書館に角田光代の本を全リクエストするという普及活動にハマっていた頃でもありました。

私を待っていた本たち

そう考えてみると、大事な時に私を救ってくれた本の多くは、自分で主体的に選んだものではなく、その時その場に偶然あったもの、誰かが読んだあと残された本であるように思えてきます。

学生時代の一時期(これもまた煮詰まっていた高校時代)、宮本輝の作品ばかりを狂ったように読んでいたという話を飲みながら話したら、「あのトカゲを壁に刺しちゃうやつ」と、私も一番印象に残っていた本のエピソードが彼女の口から飛び出してきて、びっくりしました。

言葉にならない呪詛を胸の内にぐるぐるさせながら、ただ家にこもって本を読んだあの時間は、自分の暗黒時代だと思っていたけれど、あとから考えてみれば、ちっとも無駄ではなかったのだなあと、彼女の話を聞きながらじーんとしました。あの内側に向かい続けた私自身が、今の私を支えています。そして彼女という友人を広い世界から見つけ出してくれた。

私は、自分で海の奥底に沈めていた、自分のヴィネタの街を救い出したのです。

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