私の場合、中国語を話す時と日本語を話す時では、人格が入れ替わると感じる(目撃した人からも言われる)のですが、話す言語によってその人物に対するイメージが変わるというのは、よくあることなのかもしれません。
いえ、イメージだけでなく、もしかすると発言内容すら。
今読んでいる、陳寧「風格練習」の「語言」という章より、少し長くなりますが引用します。
是語言造人。廣東話既是母語,在這語言系統長大,自然不假思索直接蹦出,又急又快吱吱喳喳的,內容不免環繞最貼近民生的俗世瑣事雜事。老實說,工作場合以外,平日我甚少用廣東話來談哲學談文藝。
國語另有一套邏輯和儀態,尤其臺灣國語。我常聽人家取笑臺灣國語太軟太酥,男人講話也嫌太濫情。最初我亦不太習慣(應該是不熟悉),但很快我便意會,這語言系統裏,沒有這些蔥花來調味根本搭不上嘴,端是語言的規則。說臺灣人常“喔”前“喲”後像發情,其實香港人也常“囉”來“咩”去的拉牛上樹。日子久了,蔥花鹽花手到拿來,我發覺說國語的我好像真的比較溫柔比較深情比較浪漫,不像廣東話那麼寫實。偶爾不慎拿了廣東話的語體錯置在國語場景,竟給臺灣朋友某種“歐巴桑”(師奶)印象。
広東語と台湾国語を話すときのイメージの違いについて書かれていて、とても興味深かったです。
台湾の国語と大陸の普通話もまたずいぶんイメージが違うような気がします…。
英語とフランス語についても…
這麼說來,英語和法語後天調教出來的我,像是異己。英語學習時日長,友儕之間溝通也常用,算是家常用語,其規範作用已日益減少。法文倒不然,文法邏輯嚴謹,步步為營。
memo:
拉牛上樹…办不到,难上加难(辞書に載っていませんでした)
日々精進あるのみ、ですわ。