手帳って、ふしぎな文具ですよね。
SNSが普及して、他人の手帳を覗ける機会が増えて、余計に複雑な存在になってしまった気がします。
手帳への愛着
手帳好きな人の手帳とのかかわりを見ていると、私は決して手帳が好きなわけではないんだろうなと感じます。
生活に自転車がかかせないけれど、別に自転車本体や、自転車に乗ること自体が大好きというわけではない、のに似ているかも。
ママチャリは人目が気にならない程度にはメンテナンスするけれど、基本ほったらかして錆も浮いてきてるし、天気のいい日には自転車に乗るよりむしろどこまでも歩いて行きたい。
とはいえ、単なるツールと割り切れないほどの愛着もあります。
自転車も手帳も。
そこまで考えて、ああ、私はずっと手帳を使いたいのに続かなくて、「手帳をつける」ことへのあこがれを持っていたけれど、とうとう「あこがれ」が実現して「愛着」に変わったんだな、と気づきました。ほどよい愛着。
あこがれの解像度を上げる
思えば、「手帳へのあこがれ」とひとことで言っても、その中にいろんな要素がありすぎて、自分でもよくわからないままでした。
💎ほぼ日を使い始めたころは、素敵なライフログへのあこがれ。
過去を振り返って手帳を読み返すときの楽しさに重きを置いたあこがれでした。
💎バーチカルの手帳を使い始めたころは、充実した人生へのあこがれ。
結婚出産というライフイベントで理想的なキャリアからドロップアウトして(させられて)しまったと感じていた頃、時間の目盛りが並んだ手帳のページをぎっしり文字で埋めることができれば、このモヤモヤから逃れられると思っていました。
💎タスクのとりこぼしが多すぎて毎日失敗ばかりだった頃は、手帳によって自分の生活をきちんと切り盛りできる人にあこがれました。
手帳本体よりは、「ちゃんとできる人」へのあこがれが強かった。
「ちゃんとできる人」になるという目的のために、手帳へ書き込むことを増やしすぎて、本末転倒になってしまったこともありました。
💎SNSで見かける、手書きの素敵なフォーマットにもあこがれました。
自分にピッタリのフォーマットさえ見つかれば、すべてがうまく行くような気がしました。
と同時に、画期的なフォーマットのアイデアを披露すれば、たくさんの人に注目される、ということにも心が惹かれました。他者からの評価を目的にしてしまうとたいていのことがメンタルから崩れていくものですが、私もその例外ではありませんでした。
「自分のための手帳」というところに心が定まっても、悪魔のささやきのように、いろんな「あこがれ」が際限なくわいてきます。
自分の行動、感情、すべてをライフログとして残したいという、完璧な記録へのあこがれ。
書籍やSNSを見て有益だと感じた手帳メソッドの、そのすべてを自分の手帳に取り入れたいという気持ち。
絵が上手になりたい。
字が上手になりたい。
昨日の自分より今日の自分がまさっていることを確かめたい。
目的を過信しない
あこがれは、理想のすがた。
人生の目的のひとつではあるんですけど、それを追うのが「正解」かどうかはまた別の問題です。
あこがれの出所がどこか、とか、そのあこがれの影にひそんでいる本当の自分の欲求、とか、そういうところをときほぐしていかないと、トンチンカンなものを目標と定めて駆けていってしまいかねない。
私の場合、「ちゃんとできる人」へのあこがれはちょっと病的で、気を抜くと「ちゃんとできていない自分」を追い込みすぎてしまいます。そういうときは、周囲の人への要求も強くなるので、誰も幸せにならない。
自分が理想よりちゃんとできていなくても許せるほうに舵をきっていかなければいけません。
そういうことが、少しずつできるようになってきました。
フォーカスしすぎず、視野を広く
手帳術には人生の意味とか成功への道筋とかにフォーカスするメソッドが多いですが、私には一点を見つめすぎるとすべてがぼやけてしまうようなところがあって、的外れなものに意味を見出してしまうことが多く、うまくいきませんでした。
こういうメソッドには、向き不向きがあるように思います。
「記録から意義のあるつながりを見出す」ということは、確かにあります。
ノートをときどき見返すと、案外なんでもない記録に意味があることに気づくことができます。
これは記録を取ることのメリットのひとつだと思います。
ただし私の場合、この作業に意義を見出しすぎると「未来の自分のために、ぜんぶ記録しなくちゃ!」の強迫観念にとらわれてしまいます。
あるテーマに沿った記録をとることが長く続けば続くほど、記録が抜けてしまうとそれが重大なミスだと感じることも起こりがちです。
続けることをやめていい
これは手帳に限ったことではなく、長く続けている語学でも同じように感じることがあります。
SNSで成功者の「続けた人だけが到達できる」といった生存者バイアスに基づく発言を見て心が揺れます。
私は続けることを辞めてしまった敗者だ、と思わされてしまう。
でも、この論理で生きていくと、何も捨てられなくなるんですよね。人生は選択の連続なのに。
ひとつずつ、その時必要なものを
自分が抱いている「あこがれ」は、ときほぐすといろんな要素が詰まっています。
いろんな要素をまとめて叶えようと思うから、難しくなる。
欲張って一度に手に入れようとせず、ひとつずつ取り組んでいけば、少なくともひとつだけは続けられたという成功体験になります。
習慣となった有益なものも、必要がなくなってしまえば、手放していい。
かわいい手帳、知恵がつまった手帳、字のきれいな手帳…、SNSでいろんな手帳を見るたびに、あこがれがつのりますが、ときどきまねっこしては続かず、また続かなかったなーと思っては、別のすてきなものに惹かれてまた試すことを繰り返しています。
自分があこがれる手帳を続けられなくても、自分がいいなと思うものを試す場所を手帳の中に持てている。
そう思うようにしています。それは、自由度の高いバレットジャーナルのメリットでもあります。
(必要かなと思うときは、ウィークリーページをつくることもあります。予定管理ではなく、あくまでログとして。フォーマットもシンプルだし書く内容も多くないのですが、毎週やろうとがんばるとだいたいうまくいかない。)
あいかわらずまとまりのない文章ですが。
断続的なトライアルが連続的に積み重なって、自分という人間をかたちづくっていく。
自分の行動や感情、体験したことが思いもかけないかたちで組み合わさっていくから、人生はおもしろい。
飽きっぽい私が手帳を使い続けていられるのは、不完全な記録の集合体であるバレットジャーナルがこういったことを気づかせてくれるからかなと感じています。
私はたまたま手帳でこういったことを実現できていますが、いろんなツールがあるこの現代では、別に手帳じゃなくてもだいじょうぶ。ひとつのやりかたにとらわれず、自分にぴったりのツールややりかたを見つけていくといいと思います。