日本語から学ぶ中国語・中国語から学ぶ日本語



すばらしい本です。目からうろこがぽろぽろぽろぽろ、落ちて涙までこぼれます。

未知の単語に出会い、辞書を引いても載っていなかったり、訳語にしっくりこなかったり。2つの言語の間でA=B、とぴったり一致する語など存在しないということは、考えてみれば当然のことなのに、受験英語でかちかちになってしまった頭はその事実をすっかり隅っこに追いやって蔑ろにしていたのでした。

はさみというもの一つを表現するにしても、「挟んで…切って…ふたつになる」という一連の動きに対して、日本語は最初の部分しか切り取らず、中国語はその道具が「刀」であり、「挟んで切る」という動作を切り取ったものになっています。

過剰に思える中国語、それを過剰と思うのは母語である日本語という下敷きがあってこそ感じること。

「百貨商店」「百貨商場」「百貨商城」
漠然と認識していたデパートの名称、最後の語が変化するのは単なる言葉遊びかと思っていたらそれだけではなく、類別を明確に表すための、いわばオーダーメイドのパーツであるということ。

辞書ではA=Bである事項も、AとBそれぞれの背後にある語られていないニュアンスの違いがある、そういった言語の根底に流れる基本的な感覚の違いを知ることこそが、語学学習に不可欠であるということを実感させられる本です。

自然な日→中訳がなかなかできないと悩んだこともあったけれど、このような知識がないのにできるわけがない、と納得してしまいました。中訳作文にとても役立つ本だと思います。

以前読んだこの本では、

日本語文章に対して、日本人が訳した中国語と中国人が訳した中国語文章がセットで示されています。

日本語原文の並びどおりに忠実に訳している日本人訳に対し、中国人訳は大胆に意訳され、その二つの間にある違いについてほとんど「この言い回しの方が中国語的」とだけ説明がついています。

300の例文を比較すると、日本語的な言い回しと中国語的な言い回しの間に大きなギャップがあることがよくわかります。わかってはいるけれど、その例文でいくら作文練習をしても、なかなか他の作文でうまく応用できないのです。

「日本語から学ぶ中国語・中国語から学ぶ日本語」では、この「中国語的な言い回しだなあ」と感じる理由そのものを、しっかりと解説してあります。なぜこのような言い回しになるのか、二つの言語の間にある深い溝の正体を明らかにする、その溝の正体を知ることこそが自然な中国語を書く、話すことができるようになる一番の近道だったのだと気づかされるのです。

もっと早くにこういう本があれば、中国語漬けだったあの頃、言語化できずに感覚としてため込んでいたもろもろの疑問がいちいちきちんと解消できたのになあ。

しばらくはこの著者の本、他のものもいろいろ読んでみようと思います。