『童貞。をプロデュース』という映画の舞台挨拶で起こった出来事。
ニュースサイトなどには、おもしろおかしいタイトルで掲載されていますが、私が最初に目にしたのは、事を起こしたご本人、加賀賢三氏のブログ記事からでした。
関連する情報を追いかけ、あまり見るつもりはなかった当日現場の動画を結局胸の詰まる思いで見て、見た後もこの一件について考えることから離れられず、それはなぜだろうと考えながらこの文章を書き始めています。
暴力と虐げを受けた現場の録画が10年間衆人の目にさらされ続ける
土下座100時間:『童貞。をプロデュース』について – livedoor Blog(ブログ)
土下座100時間:世界で一番やさしいゲロ – livedoor Blog(ブログ)
8.25(金)「童貞。をプロデュース」 10周年記念上映中止の経緯・ご報告につきまして | SPOTTED PRODUCTIONS
関わった人たちそれぞれの胸にある「事実」はひとつひとつ違う形をしているものだと思います。
10年も前のことを蒸し返さなくても、という人もいるようだけれど、やった方にとってははるか昔の出来事でも、やられた方は昨日のことのように覚えている。
「嫌だ」と言いたいけれど、たくさんの人の手が関わりすでに形になり始めているものを自分の一言でダメにしてしまう勇気がない。
はらわたが煮えくり返るような仕打ちを受けても、同じ業界の中で生きていくには、つながりを断ち切ることはできず、絶対に許さないと憎んでいるひとから与えられた仕事をしなければならないこともある。
自分さえ我慢していればこの場がうまくおさまり、早いところ終わってくれるのなら、とりあえず耐える。笑顔すら浮かべて。
こういった経験はおそらく大なり小なり誰にもあるもので、加賀氏の行動を見ながら、弱者としての自分の記憶を引っ張り出し、重ね合わせてヒリヒリした気持ちを味わった人も多いと思います。
「撮影が終わったときありがとうって言ったじゃないか」という松江氏の言葉がすべて物語っているんじゃないかと感じました。
レイプした側がされた側に反撃されて言う「おまえだって楽しんでたじゃないか」と同じ。松江氏は自分がやったことをわかっているんだと、あの言葉を聞いて思いました。
舞台上で追い詰められた松江監督に感じたこと
加賀氏の「許すから代わりにそれをしろ」という要求に対しての、松江氏が何度も発した「ヤダ」という悲痛な声を、情けない、みっともない、と最初は感じました。
ここからは私が勝手に感じたことで、彼らの事実とは大きくかけ離れているのかもしれませんが、何度も聞いているうち、彼の悲痛な声は私には「いじめられっ子」のものに聞こえてきたのです。
とはいえこれは私が自分自身を松江氏の姿に投影することで感じた気持ちなので、実際のところ彼がどんな気持ちだったかは私の知るところではありません。
いじめられっ子は、自分がつらい目に遭ったから自分は絶対にいじめる側に回らないかというと、そんなことはありません。
部活動で先輩に理不尽にしごかれてつらかったのに、自分が先輩になったら同じ仕打ちを後輩にする、というようなことは今も昔も日常的に起こっているのでしょう。
いじめられて、いじめられている状態から抜け出したくて、いじめる側に回ることもある。
いじめられている状態がどんなにキツいかわかっているからこそ、二度と戻りたくないから、二度とあんな思いを味わいたくないから、加害者側に回る。いじめられる人を小馬鹿にする立場にいると安心する。
「ブーメラン」「自分に返ってくる」という比喩を松江氏がインタビューで使うのは、虐げられる側の立場をかつて経験した上で、今の場所にいるからという可能性もあるのかな、と感じたのでした。
笑いという暴力
ネットに上がっている騒動を撮影した動画を見ると、加賀氏が悲痛な思いで意を決して起こした行動に対して、最初のうちは会場からけたたましい笑いが起こっています。
自分もその場にいたら、あんなふうに笑っていたかもしれない。
そして途中で気づいて、加賀氏の肩を持ったり、彼の気持ちを考えて涙ぐんだりするかもしれないけれど、彼があの行動を起こす前の自分は間違いなく加害者の立場です。
「おもしろいなら続けますよ」というようなことを加賀氏が会場を振り向いて言うのですが、彼はその世間の「おもしろさ最優先」に10年以上傷つけられてきたのです。
自分が虐げられている場面が入った映画が10年間も上映され続け、そして自分にとってはこれっぽっちも可笑しくないシーン、傷つけられた自分を、知らない人たちから笑われ続ける。
その後松江氏側から出された声明はほんとうにがっかりするものでしたが、だからと言って、(騒動を含めて)観客である私に彼を責める権利はありません。彼の作品を金輪際もう見ないという選択はできるけれど。
人間は誰も間違うし弱い。力を与えられればそれを行使したくなるし、かつて虐げられた自分を庇うつもりで、今度は別の誰かを虐げてしまうこともあるかもしれない。
被害者側でもあり加害者側でもあるからこそ、このできごとをきっかけに過去の記憶があれこれ吹き出してくるのでしょう。この問題について考えるとき、誰も安全な場所にはいられない。
ただただヒリヒリと、心の痛むできごとでした。
芸術がひとの人生より尊いなんてことはない。くだんの映画は今後上映されないことを望みます。
そしてこのできごとを契機に、こういった業界の悪しき慣習が少しずつでも改善されていきますように。