言語を”変換する”ということ

日本語から学ぶ中国語・中国語から学ぶ日本語を読んで以来、語の持つ視点というか立脚点・着地点がとても気になるようになりました。
見てきたような断言をする中国語に、奥歯にモノをはさむ日本語。
こういう印象は、自らの言葉の環境に相手の言葉を”変換”せずに受信するゆえの”文字化け”だ、と著者は言います。(52p)
日本語では「洗濯もの」ですむものが、中国語ではその対象の状況によって表現方法がいちいち変わります。汚れているのかどうか、洗い終わっているのかどうか、はては服であるかどうかにまで言及しなければならない。
日本語が、語の焦点をぼかす方にベクトルが向いているのに対し、中国語はより細部へ細部へと、その表現を突き詰めていく性質を持つのです。
そういう違いを念頭において中国語の文章を読んでいると、あちこちから言葉たちの自己主張の声が聞こえてきて、頭の中がやたらと騒々しくなってしまいました。学習の上ではとてもいいことだと思います。単語(文章)の方から訴えかけてきてもらえると、強く印象に残って忘れにくいので。
発展を遂げた
発展起来了
→同じ変化を表しているが、日本語は終点を表現し、中国語は始点を切り取っている。
金銭感覚(日)
消費観念(中)
→日本語の漠然とした表現に対して、中国語は「消費」という行動に一歩踏み込んで言及している。
なんていうふうに、いちいちひっかかってきてくれます。
常日頃からこんな風に意識していれば、日→中作文にも十分役に立ちそうです。
今日の言葉
八九不離十
(近からず遠からず)

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