あぶないあぶない

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浮世の画家
今朝、カズオ・イシグロの「浮世の画家」を電車の中で読んでいたら、あやうく降りる駅を乗り越しそうになりました。あぶないあぶない。物語にどっぷり浸かって、ページから目を上げたとき、一瞬自分がどこにいるかわからなくて焦りました。
ドラマ熱も少し冷めて、久々にメモ帳と電子辞書片手に机の上の勉強をしました。
Chinesepodで理解できなかったピンインを調べたり、放置してある安妮宝貝の
「蓮花」の精読をしたり。
「蓮花」は、外来語であったり、宗教用語であったり、未知の固有名詞が多くて寄り道に忙しくしています。フランス人宣教師のユックだとか、ネットがなければ絶対にたどり着けないわ…。文明の利器に感謝。
主人公が自らの内へ内へと潜行し思考する性格ということもあってか、非常に観念的な文章。これまで読んでいた「新結婚時代」などとは違い、書面語も多く、自然に精読が必要になっています。表現も独特で、人称の使い方や不明確な時間軸に惑わされ、なんだか霧の中を手探りで歩いているような不安な気持ちで読んでます。ようやく旅立ちを迎えて、私も少しずつ物語の中に入り込んでいけるような気になってきました。
読書をしていて思うのは、「日本語で理解できない本は、外国語で読んで理解できるはずがない」ということです。
当たり前のようですが、それを痛感することがよくあります。
それは語彙力の問題ではなく、誰かの言葉を理解する力がどれだけ備わっているかどうか。外国語を学んでいると、自分の日本語を操る能力、あるいは誰かのことば、メッセージを理解する力が不足していることを残念に思うことがよくあり、自らの母語を研鑽すべく、読書に励んでいます。
「蓮花」はかなり手ごわいです。哲学的なので、ストーリーを追うだけでなく、いろんなところに思考がとんでいってしまう…
でもそれをなんとか噛み砕いて飲み込んで、自分なりに理解できたと感じたときの喜びをめざしながら、格闘していきたいと思います。

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コメント

  1. ニャロメ老師 より:

    今回ブログ内でおっしゃってること、、痛感してます。私も本を読むとき、自分の「理解する」力をもっと養わないと大事なことを読み落とすな…と思うこと頻りです…。昨今はうわべの華やかさに気をとられ(例えば「発音」がいいとか…これも大切だけれど、必要最小限のルールが守れていれば発音は大丈夫だと思う。とりあえずはネ。)がちだけれど、言葉を受け取る側のレセプター(受容体)がしっかり備わってないと相手側の言いたいことなんて全部頭の中をすり抜けていってしまいますものね…。反省です  ^_^;

  2. Marie より:

    >ニャロメ老師さま
    記事では自分の思いをうまく言葉に置き換えられませんでしたが、老師に代わりに言っていただけました♪その通りでございます。
    活字のよさというのは、映像と違って、うわべだけをなぞって行き過ぎることが難しいことだと思います。
    そのよさを存分に生かすべく、日本語でも外国語でも、いちいち立ち止まって言葉たちを噛み砕き、呑み込み、消化吸収する作業をおろそかにしないよう心がけたいです♪