がん検診で引っかかった話

結論から言いますと、再検査では何も悪いものは見つかりませんでした。
ほっとひと安心して、これを書いています。

シュレディンガーの猫

量子力学の話であるはずなのに、なぜか哲学的に語られることの多い、シュレディンガーの猫の思考実験。
毒ガス発生装置と一緒に箱の中に入れた猫が生きているか死んでいるかは、箱を開けて観測してみるまでわからない。

この箱の蓋を閉めてから1時間後に蓋を開けて観測したとき、猫が生きている確率は50 %、死んでいる確率も50 %である。したがって、この猫は、生きている状態と死んでいる状態が1:1で重なりあっていると解釈しなければならない。(wikipedia)

再検査を申し渡されて検査結果が出る間、なぜかこの猫のことが頭から離れなくなりました。
量子力学とは関係なく、私自身の文脈で解釈する、箱の中の猫の話です。

がんで亡くなったひとが多い家系なので、注意をしなくてはいけないということは理解していました。
これまでがん検診でひっかかったことはなく、今回「とうとう来たか」というような思いを持ちました。

自分が想像していたよりも冷静に、本当にがんだったらどうするか、と、治療中の家族の生活や私がいなくなった後の子供たちの処遇について考えていました。

「かもしれない」という可能性の問題というよりは、検査の結果が出るまでは、がん細胞が存在する私のからだとがん細胞が存在しない私のからだは50%ずつ存在していて、私はその両方を生きているのだなという感覚があり、それがシュレディンガーの猫を思い出させました。

がんだった場合のシミュレーションを数パターン考えたら、あとは深く考えないようにしました。猫が入った箱を遠巻きに見て箱の中がどうなっているか、あれこれ想像してかえって具合を悪くしても仕方ない。

私は常に2パターンの人生を同時に生きている

幸いなにも見つからず、ほっとしたのですが、病気の元が自分のからだに生まれている可能性はつねにあるのだなということを実感しました。

年に1回、人間ドックでの観測が行われるその瞬間以外は、それを持っている私と持っていない私が50%ずつ存在している。

もし病気がみつかったとしても、生きている人間の体は、蓋の閉まった箱です。
観測するその瞬間以外は、「持っていない私」「快癒しつつある自分」として人生のよろこびの一瞬一瞬をしっかり味わえるといいなあ、というようなことを考えていました。

この気持ちを記録に残しておこうと思ったのですが、とりこぼしてしまっているものの方が圧倒的に多く、何も伝わらないかもしれません。

こうして毎年毎年、不安な気持ちで箱を開けなければならないのは正直憂鬱ですが、守るべきものがある以上、やっぱりこうして1年に1度検診を受けることは大切なことだなとしみじみ感じました。みなさんも検診受けましょうね。

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